『花に触れると、私は無限に触れる。この感触は
肉体的なものではない。地震のせいでなく、風でも
火のせいでもない。それは、見えない世界に現れる。あの
静かな小さな声に、妖精は目覚め、息を吹き返す。』
(ジョルジュ・W・カルヴェール)
この繊細な詩は私が愛する詩である。天使の魂をもつ子供たちとか、自然を生き返らせるおとぎ話のように愛しいものを、いろいろ心に運んでくれるから。子供たちは、生命の豊饒といえる。彼らの夏 ― 水泡がはじける小川と、野原に咲き乱れる夏の花に群れ飛ぶ蝶々 ― は、いつもいつまでも私たちの中にある。しかし、どの子供にも大人っぽいところがあり、どの大人も子供っぽさを残している。これを想起すれば、私たちは、子供をもっと良く理解でき、自分の意志、自分の意見や希望をもつ一人前の人間として、子供を扱うことができる。大人らしさはどこにあるか子供は気がついており、尊重されるべき自らの人格を持っていることを知っている。個性は、私たちみんな違う。憎しみは憎しみを生み、愛は愛を生むと覚えておこう。私が愛する詩人カハリル・ギブランも、子供についてズバリこう言っている。『あなた方が、子供みたいになろうと試みるのも良いだろう、しかしあなた方は、まず、子供たちを、あなた方のようにしようとしているのではないか。あなた方の愛を彼らに注いでほしい。しかし、まず子供たちのことを考えることから始めてほしいのだ。彼らは自分の考えを持っている。彼らの魂は朝の館に住んでおり、そこへ行くことも、夢に思い描くことさえ、あなた方はできないのだから。』
子供の世界には、平和、発見する喜び、純正性、そして母なる自然の接触が充ち溢れ、それこそ敏感な子供たちは、なんの衒いもなく自然に感じ、体験しているのだ。私はいちばんそこに光をあてたい。子供の頃が、人生で最良の時代だ。それはまるで、吹きよせる雪のような人生で、ガラス窓の霜の花や氷が綾なす絶妙なレース編みの芸術のように、感心され褒められ、そして消え去る走馬燈のような人生の儚いひとこまだが、それでもなお、その形状と純粋性に最後まで光をあてようとしている。子供は、花のように純粋で、愛に包まれるべきものだ。なぜなら愛さえあれば、子供には、あらゆる生命の源が湧き出してくる。愛は、心と心の架け橋である。驚異をもたらす光である。
子供は、まるで小さなおとぎ話だ。しかし現実である。子供の世界は自分だけの秘密の世界で、大人には入り込めないが、もし自分の心の覆いを少しでも開けることができればまだ、推測できる。子供のいない人生は、触れもせず過ぎゆく人生と同じだ。子供と一緒に何かしていると、大人は自分の中に子供が居ることに気がつくはずだ。あるいは、子供の世界に同化でき、子供が何を言いたいのか耳を傾けることを学ぶにちがいない。成長の出発点は、やはり、自然と共に成長する過程にあり、だれでも自分の精神的肉体的リズム、言い換えると自分の時刻表に従い、自分自身や他人、そして自然や世界のあらゆるものと、精神的肉体的にうまく均り衡いをとりながら成長し、トムボーイという玩具のように自分の重心で規則的に前進してゆく。苦悩なくしては実際なにも成長しない。しかし、子供には、それを学ぶに必要な前提条件がある。子供は、信じられないほどたくさんの生命力、思考力、そして光をもっているのだ。馴れるのが大人よりずっと上手で、なんでもいっしょうけんめいやり、内なる本能を全開できるのである。
おとぎ話を本気で信じるのが、子供の信仰だと思う。おとぎ話は、たいていとても現実味がある。人類の精神的遺産であり、私たちの願望でもある。おとぎ話を信じるかぎり、私たちには希望がある。
『こびとの足跡 小さくて、決してどこにも見えません。とても静かに軽々と、こびとは小径を歩きます。それは心に聴こえましょう。』
アハタリにて、1986年5月25日
アンネ・パユルオマ