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7 月から銀が零れるとき

 クリスマス前夜のこと。八才の少女サンナが、ラップランドの小さな丸山 の村にあるサンナの祖父母のところで、百年も経つ古い丸太小屋で、両親といっしょに、クリスマスを過ごしていた。サンナの母は、サーメ人{ラップ人の一族}だった。大きな都会を離れ、田舎のお祖父さん、お祖母さんのところで、トナカイと丸山 の丘で過ごすのが、いつもサンナは楽しかった。お祖父さん、お祖母さんは、サンナにとても優しく、とくにお祖父さんは毎晩、いつも暖炉の火のそばで、ワクワクするようなラップランドのおとぎ話をサンナに聞かせてくれたし、冬は、電動ソリのドライブに連れ出し、夏なら、いっしょに自然の中をハイキングした。
 クリスマス前夜は、真っ暗闇で、何万という星が、炎のように天空に煌めき、オーロラが姿を変化し、色彩を移ろい、しかも満月が、クリスマスのお祝い気分をもりあげた。樹木は、白霜に覆われ、真珠のヴェールをかぶった花嫁のようにみえる。深い雪の零下四○度の寒さの中、庭に丸い器の椀をならべてローソクの火を灯し、小さな松明のように点々と黒い闇を照らしていた。
 サウナをつかい、ごちそうを食べて、プレゼントをもらい、もう夜も更けていたが、サンナは少しも眠くなかった。床のクマの毛皮の頭に坐り、お祖父さんにもらった贈物『カレワラ』{フィンランドの民族的叙事詩。誰でも学校で習う} の大きな本の挿絵を眺めていた。ハーブティーやコーヒー、クリスマスのごちそう、クリスマス・ケーキ、クリスマス・ツリー、ヒヤシンスやキャンドルの香りが、居間にあふれていた。クリスマスは昔のおとぎ話のように謎めいて、サンナは心がときめいていた。「月が古びた銀を零すとき、たくさんの星が下界へ深い雪の中へ降りるとき、オーロラが、天使のオルガンのように、生けとし生けるものの肩に吐息のような歌声を響かせるとき、凍てついた氷のカンテレ {フィンランドの民族楽器。竪琴} がポロンポロンと、冬の天穹に木霊するとき、深い悲しみが、霜氷で真っ白の老樹のヒゲ苔に包まれて微睡み、樹木が、眠るフクロウの子を枝一杯にまとい、ささやくように語りあうとき。そんなとき何かが起きる。とりわけ、こんなクリスマスの夜は」サンナとおしゃべりをしながら、お祖父さんが言った。暖炉の火が燃えさかり、居間の食卓に置かれた土器の壺やランタンにローソクが灯り、外の薄明りがしずしずとクリスマスの夜に近づいていた。サンナの母は食卓で祖母とおしゃべりして、父は「ラップの民」新聞を読んでいた。お祖父さんは、揺り椅子にどっしりと腰をかけ、サンナを見ながら、トナカイ犬サメリを撫でていた。突然、サンナは本の頁をめくる手をとめ、お祖父さんにおとぎ話をせがんだ「お祖父さん、またなにか素敵なお話をして。このお家の屋敷わらし とか、緑の地老仙 、沼の魔女 、透明ユウレイ、人の姿をした老木や巨石、山彦 、それとか妖精のお話をして、ねぇねぇお願い」。おじいさんは、白い顎髭をしごき、微笑みながら、サンナを見つめて言った「それでは今度は、気分をかえて、去年の秋に私が見たことを話すとしよう。サウ・カァレプ・ヴェルホ {ポール・キャベツの魔法使いという意味} の地を、あちこち旅していたのだよ。
 樹木の緑のランタンの灯りは、すで消えてしまった。妖精たちも、冬の寝床で眠っていた。雪が茜色に染まる時刻だ。湖は白氷で硬くしまり、北風が吹きすさび、樹氷にいっぱい白霜の真珠をつけた。野生の雁、鈴鴨、ひょうたん鴫 、白鳥、それに小イソシギもみんな、すでに旅立った。白霜の布団の下で花も眠りについていた。満月だった。やれやれ夜食にしようと、燻る火のそばで、樅の木の寝床に坐り、おやつを食べていたんだ。すると突然、綺麗な鳥 がやってきて、私の肩に止まり「クつるこけもも池の方をご覧」と言って飛び去った。慌ててそちらを見ると、こんなことってあるかしら!月の光の中にぽっかりひらいた池に、こんなに白い月のトナカイと、黒いクマと、銀色オオカミが、一緒になって恍惚と踊っていた。そのとき一瞬、雲が月を隠し、ふたたび月が現れたときには、そこはもう、つるこけもも池は、しんと静まり返っていた。月のトナカイの仲良し祭りは、かき消すようになくなっていた」
 サンナには、祖父の話しは、不思議で感動的だった。もちろん月のトナカイの話し。たまには、そういうものに会いたいな。お祖父さんといっしょなら、きっと願いがかなうかもしれないと、サンナは思つき、それから眠くなって欠伸をした。まだなにか祖父に話してもらいたかったのだろうが、祖父はかわりに、サンナを腕に抱きかかえ、サンナを小部屋へ寝かせに行った。美しい夢を見なさい「おやすみ」と言って、祖父は、また明日の晩、サンナにおとぎ話を聞かせてあげようと考えた。
 サンナは、夢を楽しみに、ベッドに横になり、ときどき窓外に目をやっては冬の夜を眺めた。夜空はダイヤモンドの庭園のように煌めいていた。ルイヤ {フィンマーク}の頂がきらきら輝いていた。地平線に屹立した赤松が、燃えるように空を縁取っていた。北の長老が、夜の篝火を燃やしている。それが、アアパヤンカ{北フィンランドの湖沼地帯にある弓状の丘陵}や、なだらかな丸山 の上空を、とても明るく多彩な色合いに染めた。遙か遠くで北極狐が、ヒョンヒョン雪に弧を描き入れると、狐の冷たい足もとに、冬の真珠か白霜のクリスタルのような雪煙が舞い上がる。ライチョウが、雁と押し合いへしあい、ひしめき合って、グァグァ鳴いている。枯れたトウヒが、だれも知らない国境を守る警備隊のように立ちつくし、枝の上の巣で、フクロウが、沐浴するように雪を撥ねかえした。雪の大理石に月が影絵を描く。オッレソカの地や、ヒルヴァス=ラッシ {ヘラジカと牧羊犬の意、地名} のカルフヴァアラ{クマの危険の意、地名} の雪原で、血に飢えたオオカミの群が獲物を追い、永遠の北風が呻りを上げ時を越えて歌いつづけ、極北の夜は、霧氷の黒く冷たい炎の舞いに焔々と呑み込まれていった。
 ついに深い眠りについたサンナは、とても不思議な体験をした。本当に、まざまざと感じたので、サンナは、それが夢か現か分からなかった。突然、銀色に輝く白い月のトナカイがサンナのもとに現れ、背中に乗りなさいと、女の子に言った。サンナは、愕いてトナカイを見上げたけれど、少しも怖くなかった。それで、トナカイがここにまた連れもどしてくれるならと、サンナは勇気を出し、パジャマのままトナカイの背に乗った。「あなたは、私を何処へ連れていくの?」サンナは聞いた。「すぐに分かる」トナカイは答えた。途端に、見馴れた部屋は、見る間に霧のようにぼやけ、サンナが見たのは、ただ茫漠とした広がりと、瞬く星だった。銀河を渉り、星雲を抜け、考えられる限りの速さで飛び、ついにオーロラ仙女の地に舞い降りた。月のトナカイは、銀の山、クウリンナ{月の鳳凰}へ、サンナを運んできたのだ。そこには『カレワラ』の老いて不抜なるヴァイナムイネン {太古の吟遊詩人英雄。カレワラの主人公で、生まれながらの老人。大気の娘、この世の創造者イルマタルの息子} その人が住んでいた。
 ヴァイナムイネン 「されば処女よ。乙女ごよ。真珠の白き、いと麗しき。いかなる炎の館より来たれるや?」
 サンナ「そこから来たのじゃないわ。地球から、遠い北の国からよ」
ヴァイナムイネン 「さればいと遙かより! 草深きジュニパー茂る、いとみすぼらしきあばら屋より、岩がちの暗き歌なる辺地より。されば永久に懐かしくとも、末永く暮らさんとして」
 サンナ「ちょっと訪ねて来ただけよ。賢い知恵を授かりに」
 ヴァイナムイネン「汝れが訪れ来たれしは、いと歓迎さるべし。星の古里へ。我れの語るを、聴き得べし。されば宝を埋めるべし、汝れの心にしっかりと。夜の上界、星高く、常に高きへ昇るべし、荒ぶる潜みへ寄らざるべし、悪なる掌へ陥るべからざるべし。眼に嘲りの光を宿すべからず。深雪を溶かし、唇に祈りを添えるべし。いと若き麦藁のごとく、しなやかなれかし、されば嵐の下で折れぬべし、霜の荒野で枯れぬべし、されば穀物 {人生のこと} は、豊穣の鐘を鳴らすなり」
 サンナ「ここは明るいのね、どこもかしこも光が閃いているわ」
ヴァイナムイネン「されば、天には七重の虹の扉、数千なる星の庭園、永遠の地に住むゆえなり。あれなる低きは地球なり。北極星の下界、雲に覆われし方、風凍みる靴、石の顔、雪と氷に覆われたる細き道。流浪の者の旅路は重し」
 サンナ「けれど、私のお家があそこにあるの」
 ヴァイナムイネン「我れの銀、我れの娘よ、夢が運びし我れの妖精、かの地球はすべての下界に、いと遠きにあり。すべての顔に風の刻したるや。口唇に悲しみの調べあり、されば天使が招く角笛の音鳴るまで。それより汝れの心にぞ、天は触れうべし、花の咲きほこり、細き道に溢れるなり、それより汝れは、かならずや昇らざるなきなり」 
 サンナ「私は、どうすればいつも正しい道が分かるのでしょう、何処かへ、迷子になってしまわないかしら?」
ヴァイナムイネン 「星の瞳ぞ美しき。風から風へ芳しき香り移ろう、されば進み行くべし。風の祈りを聴くなり、樹々の鬱蒼たる語りを聴くなり。すべて汝れの魂の眼で見るべし。汝れの魂の本能に従うべし。鋼鉄の煉瓦のごとく硬くあるべし、悪の誘惑には、真珠の冷たさを。常に光の本道を歩くべし、夜の魔法使いは、日中の良きものを肩をすぼめて棄つるなり。尖り口のもたらす知らせを求めるなかれ。暗き宿屋に住まざるべし。鳥のごとく、自らの友の群の営巣する樹木を求めるべし。心気高くあれぞかし。良心の火を、心に燃え立たせるべし。似非なる檻、憎悪の棲まう人間を避けるべし。誰にも心を開くべし、扉はすべての方角に開くなり。天の御殿へ開かれる、七重の虹の扉さえ」
 サンナ「私の幸せは、どうすれば見つかるの?」
 ヴァイナムイネン「月の魂、我れの花よ、荒野の地にては、汝れの生命は幸せならず、汝れの家こそ尊ぶべし。ただ、もし陽射し眩く、鳥の巣の豊穣なる綿の木、平和のランタン灯る窓辺、口唇に花の微笑み。さればなり、霜は余所の地へ、狼はこびとの踵に、蛇の舌は、蛇の蜷局に隠れ、逆巻く嵐は握り拳の中なるなり。結婚もいと良し。古の聖書に書き記されし、すばらしき夏の夜に花香る野原にて、汝れも、とく結ばれるなり。揃いて二人寄り添うなり。されば魂の収穫を祝いて、風も吹き来り」
 サンナ「賢者よ。良きヴァイナムイネンよ。友だちは、どうすれば見つかるの、私の心に共鳴する友だちは?」
 ヴァイナムイネン「私の銀よ、小鳥よ!水のさざ波サラサラなる、雲の小径を見やるべし。大気の乙女たちこそ、いと可愛いらしけり、四季には歌を紡ぐなり。夜になり、月が出る、夜に月光あり。さればより、風の娘は風の屋敷に、水のニンフは岸辺にあり、森のニンフは森の小道に、花の妖精は原っぱに、夏の夜の薄闇の中、互いの音色のそばに居る。似合う処に在れかしと、覚えておくべし!暗き魔法の歌は去りゆくなり。黒き冷たき霜の精に見入られぬよう避けるべし。破壊力には距離を置くべし。魔女の地にぞ、悪の根は張る。されば黒き心の奥底に、大戦禍の蛇が潜むなり。平和は、暗き道筋にはあらず。血の唇が叫ぶ苦痛にあらず。人生の小道に松明を灯し、心の炎の明るいように、されば学ぶべし、家宝とすべし。偉大なる、聖なる書『カレワラ』を読むべし。永遠を懐かしむとき、涙が頬を伝うとき、胸いっぱいに詰まった石が未知なる呻りをあげるとき」
 サンナが、ヴァイナムイネンの賢い教えに優雅に礼をすると、月のトナカイ が、また先程のように、サンナの許に現れた。不抜のヴァイナムイネンへ、住処への訪問は終わりだった。
 帰る時間だ、サンナはもう月のトナカイの背に坐り、ヴァイナムイネンが、丸い月の石が飾りについた銀の指輪を、思い出に、少女の指に填めてくれた。サンナが石を近々と見ると、生々しいヴァイナムイネンの顔がそこに見えた。まるで水の膜の中に見る霜のヴェールのように、オーロラの姿を透して幽かに浮き出していた。サンナは、贈物にとても魅了された。しかしお礼を言う暇もなかった。というのは、たちまちすべてが銀の霧に包み込まれてしまったから。そして彼らは、足跡をたどり、キラキラ光る星の庭園を称え、オーロラの滝を抜け、月の架け橋を渡り、地球へ、サンナのお祖父さんの家へ戻った。そのときサンナは目を開き、自分がベッドの中にいることに気づいて、本当にびっくりした。あたりを見まわしても、月のトナカイはどこにも居ないし、ヴァイナムイネンも居なかった。でも指輪がある!その指輪は、ヴァイナムイネンの銀河の住処を、サンナが確かに訪れた印に、ちゃんと指にあった。なのに!その指輪だけが、見知らぬヴァイナムイネンの住処を、サンナが本当に訪れたと皆が信じる明白な証拠になるはずだったのに。他の人たちは、指輪を、つまらないおもちゃの飾りで、ついている石は、ただのプラスチックの真珠としか見てくれなかった。
 それから朝餉のコーヒー・テーブルで、サンナが不思議な訪問のことを話し、本当のお話しなの、と指輪を見せると、皆は、まるで、いま見た夢とか、子どもの戯言に微笑むように、愉しそうに、サンナに笑いかけるのだったが、祖父だけはそうしなかった。指輪を見たとき、サンナの旅路は真実だと、祖父は分かった。というのも祖父は、サンナと同じような銀の指輪で、石に、まるで写真のようにヴァイナムイネンの生き生きした、深みのある賢者の光を放つ顔が映る指輪を見たことがあった。お祖父さんは、サンナを見つめ、そうさ、よく分かっている、というように、頷きながら微笑んだ。サンナは、すぐそれに気づいて嬉しくなった。それからというもの、サンナとお祖父さんは、共通の宝物を持ち、それをつうじて世界で二人きりの秘密を持つことになった。


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