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5 ティイが幸せを見つけたとき

 
 夏至の夜だった。森の池は、空に映え、シダやワラビの花が咲いていた。{夏至の前夜、シダは青い小さな花を開き、すぐ種をつくり、真夜中にそれを地上に落とすという俗信がある。種は金色や橙色で、三粒手に入れると、どんな動物も自由に使え、身につければ透明な体になれるという}。野生の小灌木がサラサラ音を立てている隠れ家に、絹のような毛皮をしたパアスタイネンの男の子が坐っていた。名前はティイ。緊張に鼻ヒゲを震わせながら、スオンハルティア{沼に棲む妖怪}のすばらしい歌声を聴いていた。
パアスタイネン
パアスタイネン
 野生ランやリンネソウ {夏に白い花が花茎の先に二個づつ咲く}、沼地のツルコケモモ、柳の実、森の星、エリカ、酢漿草、そして苔にかこまれ、風がうつらうつらしていた。柳にはえる匂いキノコが、アニスの香りに薫る。樹々は葉をしげらせ、ひそかに囁きかわしている。シダの小径で、緑の瞳のマアヒネン{緑色した大地の妖精・妖怪} が奏でる白樺の樹皮で作ったフルートに合わせ、妖精や鬼火、それにムルク{大地の妖怪}が踊る。リュウキンカ {湿地に生え、黄色い花が咲く} に覆われた小川は、流れの溜まりにあふれたサカナで、さざ波がたち、暗い原生林をクリスタルのように水が流れ、湾曲した川筋をたゆたっていく。数千の花の香りが原野に漂い、海と見紛う草原いちめん見わたすかぎり朝露のベールがきらめいている。ふさふさとヒゲ苔をつけた老樹たちは、心を凛と研ぎ澄まし、小鳥たちに新しい知らせがあるか問いかける。神殿の柱のように高くそびえたトウヒの青く煙った木々のあいだに、夏の夜の透明な光りが燐光のように射し込み、雨あがりの森をむかしのおとぎ話のように青鈍色に浮かび上がらせた。
 ティイは、隠れ家から用心深く小径へ踏み出し、いぶかしげに辺りを眺めた。ピートモスとクマゴケの真ん中に、煙るようなエリカとリンネソウ、そしてヤブヤナギとともに、ブルーベリーとクランベリーの枝先が霧煙の中に立ち昇る。石や木の切り株も、もっと乾いた場所も、ヤカラ苔がいちめんレースのようにおおっている。四方八方、見回して、人っ子ひとりいないことを確かめると、ティイは巣穴のある風景を抜けだし、小川の堰の細道を、もっと広い未知の世界へ走り出した。
 小さなティイは、家出の旅路についた。家で、お母さんが、あれはダメこれはダメ、ああしなさいこうしなさいと、いつもうるさいのに嫌気がさした。「おりこうさんに、食べなさい! 上着を泥んこにしないように、注意して遊びなさい! お庭にいなさい! おうちの庭からどこへも出てはいけません! 静かにしなさい! 人のことは気にしないの! もう寝なさい! お行儀よく坐りなさい! いちいち口応えをするものではありません! お父さんお母さんの言うことを聞きなさい! ていねいに話しなさい!」と、やかましい。まさにそのせいで、ティイは、安全な家や両親や姉妹を永久に捨て、どこかに自分の小さな巣穴を探しに出ようと決心した。そこでひとり平和に自分の意志で暮らせるだろう。そうすれば誰も命令したり、禁止したりしないはずだ。自分で自由に暮らし、完全に好きなようにしていればいい。でも、ティイは、いい知れぬ恐怖を感じていた。家庭の安全な雰囲気から離れることを、悩んでもいた。もう絶対、お母さんに会えないと思うと、ティイは、咽喉をつまらせウッウッと泣きながら、走りがいつしか歩き足になっていた。それから小川の河岸を外れ、小石に坐って休んだ。そばに露のおりたプラタナスの葉があった。ティイはその葉をのぞき込み、露の滴を飲み、咽喉の乾きを潤した。とつぜん、草の下からフグフグいう声が聞こえた。辺りの草むらから、硝子のような目をしたマーモット {地下に棲む齧歯類の動物} のとても年をとった爺さんが杖をつきながら出てきた。ティイを見ると、ちょっとビックリして「だっ、誰だね、お前さんは?」と、ひょうきんな感じで尋ね、続けて言うに「うんにゃ、お前さんはこの辺りでは、見かけない顔だ。この辺りに住んでおられるのかね?」「ぼ、ぼくは、ティイです。幸せになりたくて、家出をしました」息を切らせて、ティイは答えた。「やれやれ、そうかい。それでいま幸せかい?」とマーモット爺さんはのんびり聞いた。「もちろんです!ええと・・・少なくとも、ましです」ティイは落ち着いて答え、とつぜん泣きたい気持ちになったのはなぜだろうと思った。マーモットじいさんは、じっと調べるように、けれど友だちのようにティイを見つめ、それから言った「わしは、もう年寄りだが、わしにも若い頃はあったし、世の中を見たいと思ったこともある。今のお前さんのように。そして、わしも一度、家を出たことがあるよ。幸福を探しに出かけたのだ。幸福は、どこか余所にあると思ったのだね。探し回ったあげく、なにも見つからなかった。幸福とは、心地ちよくしていることで、家で、身近なところで体験できると、終いに悟った。それで、家に戻り、母のそばを二度と離れなかったよ。連れ合いを見つけ、自分の家を建てるまではね。そういうものだ。みんなどこかに繋がっていなければならない。そうでなければ安穏と心地ちよくしていられない。わしもまだ子どもの時分だから、家が、両親のそばだけが、幸福で安全にしていられるところだった。余所ではなかったのだよ。家出していたら、どこにも繋がっていない。そんな時は、危険が待ち伏せていて、自由といっても怖いことがいっぱいだ。ヨッコラショ、わしはもう行かなくては。そうでないと、わしが散歩で道に迷って家に戻れなくなったと、嬶ァのティルタに気を揉ませることになるからね」 マーモット爺さんがそう言って遠ざかると、ティイはひとりぼっちになった。ティイは、本当に寂しく感じた。それでシクシク泣きだした。それにお腹も空いてきた。とつぜん、むしょうに怖くなった。家出の旅路の初めより、ずっとずっと怖い。もう孤独を、バラの花のようにすてきには思えない。それでもそのとき、ダメ、と言うお母さんの声や命令口調をまた思い出し、勇気をふるって旅を歩いた。帰りの旅路の道すがら、ブルーベリーの茂みを見つけ、がむしゃらに歩いていたティイは立ち止まった。腹ぺこティイは、果汁たっぷりのブルーベリーのごちそうをたらふく食べ、疲れて苔に横たわった。ティイはそのままぐっすり眠った。どれくらい経ったのだろう。ナキネズミの坊やは、とんでもなく恐ろしい体験をした。ティイが目を覚ましたのは、ティイが眠る辺りのブルーベリーの茂みを、巨大なクマが手でグイと掴んだときだ。ガォーッツ!目を回しながらもティイは、クマの手の中でクマから見えないブルーベリーに紛れていて、野獣が大きく開いた口を、鋭い歯から口の奥まで、見とおせることに気がついた。「ぼくを食べないで。ティイって言うんだ」本当に小さなスナネズミは、クマの注意をひこうとした。なんて運が良いのだろう! 一瞬、クマは、口をパクンと閉じ、手の平をおもしろそうに眺めた。ちょうど手の平をひっくり返し、山盛りの美味しいブルーベリーを、腹ぺこの口の中へあけようとするところだった。「ぼくはフルーベリーじゃないよ。ティイだよ」ティイは、なおもチィーチィー鳴いて居所を教えながら、よくよくかきわけ、ブルーベリーの真ん中から這い出した。「ホッホ、おまえはなんとちびっちゃいのだ。声までまるで蚊のようではないか」クマは、ゴッド・ファザーのように吠え、高い鼻先を、前足までぐんと降ろし、ブルーベリーと草のあいだに縮こまっているティイを調べた。かわいそうにティイは恐怖におののき、ぶるぶる震えていたので、聞き取れるような声もでなかった「ぼ、ぼくはティイです。やさしい大怪獣さん、ぼくを食べないで。食べないでしょ」ナキネズミは、祈るように、チィチィ鳴いた「あいや、わしは大怪獣ではない。クマだ。木の実や蜂蜜しか食べたくない」クマは、威風堂々と答え、ティイを地面に放すと、美味しいものを探し、小川の堰をのっしのっしと進んでいってしまった。ティイの心臓は、まだ激しく鼓動していた。とつぜん、ティイはマーモット爺さんの賢い忠告を思い出した。爺さんは正しかった。ひとりぼっちの迷子には、森は危険なところだ。それでティイは、家へ帰ろうと決意した。自分だけの巣穴と幸せは、もっと年長さんになってから見つけよう。年長さんになったら、きっともっと勇敢で、もっと力持ちになっているさと、自分を慰め、ティイは家のあるほうへ、遙か小道を辿っていった。
 道のりを半分くらい来たときに、ヒゲ苔をはやしたトウヒの老樹に出会った。幹穴や枝に、誰も住んでくれなかったと、嘆き悲しんでいた。ここなら、いま自分の家を持てるかもしれないと、ティイは考えたが、強い郷愁にひかれるように前へ進んだ。「どこから来て、どこへ行く?」ティイの家の近くで、黒いカラスがガァガァ鳴きわめいた。「答えたくなければ、答えなくていい」おなじ樹の別の枝に坐っている、ふっくら耳の栗鼠が、フサフサしっぽを揺らしながら叫んでよこし、しかめつらをしているティイを眺め、にこりとうれしそうにいかけた。ティイは立ち止まり、日向で背中を丸めトロンとしているカラスと、早口の栗鼠を見て、言った「自分の幸福を探していたんだ。見つからなかったけど。それでお家へ帰るんだ。あの大きな石のうしろにある穴に、両親姉妹といっしょに住んでいるんだよ」「幸せを探しにだって?」栗鼠はびっくりして続けた「幸福は探さなくてもいいんだよ。自分が居る場所にあるんだ。ぼくの幸せは、暖かい巣と、冬にたっぷりの食べ物がいっぱいつまった貯蔵庫なんだ。みんな自分の幸せがあるよ。みんなちがうよ。幸せは、決していつも同じではないんだ。歳月のように変わるよ、生まれたときから終いまで、年令につれて変わるんだよ」「お天道さまがぽかぽか当たって、居眠りしてりゃぁ、あたしゃ、幸せだね」カラスは応え、あいかわらず寝穢くトウヒの枝に止まっていた。ティイは、いま聞いた言葉をしっかり心に刻みつけ、敏捷な走りで力一杯走っていった。あっという間に、もう家の庭にいて、外遊びをしている姉妹たちの仲間になっていた。ティイの帰宅は、ティイ自身と同じくらい、家族たちには大喜びだった。母はうれし泣きをした。ティイも泣いた。しかしこのすべてのなかで、いちばん大事なことは、幸せとはなにか、そしてどこに住むべきか、ティイが学んだことだった。


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