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3 もっと大きな風景への旅立ち

 厳寒の真冬だった {1999年2月1日、ヘルシンキ辺りはマイナス30℃くらい、ラップはマイナス56℃だった}。身の毛もよだつ青白い雪の世界、白霜のヴェールがすべてを覆いつくしていた。見捨てられたダイヤモンドの庭園のような雪景色。天の鍛冶場で北の老人 が火を燃やしていた。天空に文字を描くように、垂直の松がパチパチはじけ、とてつもなく大きい篝火が天をも焦がす勢いだった。光の彫像のように揺らめいて変化するオーロラは、天高く天使が奏でるオルガンの吐息のようだった。

 原野の隠れ家で、疲れきった老樹が、永遠の眠りにつこうとしていた。呼吸は重苦しく、もう眠りたそうだった。老樹のヒゲ苔のヒゲ {ヒゲ苔は、木の幹に生える長い髪の毛のような緑の苔で、日本では見られない。ここでは老樹のヒゲに見立てている} についた白霜の真珠が、月光に煌めく銀の飾りのように輝いていた。老人は眼を閉じ、深く息を吐いた。侘びしく身じろぎもしない雰囲気が辺りを制した。近くで、凍える熊がぎゅっと爪を握りしめた。老樹の生命の炎は、細々と消えかかり、弱々しく色褪せ、しまいにすっかり消滅した。はるか遠く、緑のこびとが氷のカンテレ {カンテレはフィンランドの民族的弦楽器。竪琴。日本の琴のように横にして演奏}をカランコロンと奏でた。星の緞帳がするすると降りて幕を閉じた。

 マアヒネンの子どもたち、ホメロとヌップ {若芽} とフムッパナ {ソワソワ} は、自分たちの薄暗い部屋に坐って、服を濡らして泣いていた。彼らの愛する年老いたババが死んだ。突然グウグウ眠り込み、もう目覚めようとしなかった。子供たちには、まったく奇妙で、とても怖ろしかった。子どもたちは、家の誰かがこんなふうになるのを、かつて体験したことがなかった。マアヒネンの父と母にしたって、すすり泣きをしていた。ジジにしたって。ジジは、小屋の苔むした木の椅子に坐り、炎を上げている暖炉の火をみつめて泣いていた。清らかな涙が皺のよった頬に、キラリキラリと小川のように幾筋も流れ、ごま塩のヒゲが生えた顎をブルブル震わせていた。悲しみは深かった。身近な人の死はいつも悲しいことだった。

 しかしまるで奇跡のように、ジジの涙はいつしか微笑みに変わっていた。というのも、別離ではなく、ただのさよならだと、ジジは唐突に感じたのだ。死は、ひとつの世界から別の世界への旅にすぎず、あの世で生命は続く。あの世は、星のある高いところにあり、私たちはみんな天使の翼に誘われて、いつかは旅立ち、再会する。

 こびとの祖父はこんな風に考え、その考えに助けられ、思いのほか早々と悲しみをのりこえた。家族のほかのものたちも死について、祖父の驚異的な考え方を教えられた。それからというもの彼らは、生命の終焉は、もう怖くなかったし、底なしの悲しみということでもなく、生命が尽きるのは自然なことで、永遠の別離ではないということになった。

フィンランドの人間と妖精の葬式の様子。


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