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2 ラップのトゥンットゥの渡り

 氷のように神秘的な暗闇が、森のすみずみへ流れわたる。月の顔に、静寂が宿る。漆黒の闇夜に、星が、光る穀物束のように空で煌めいていた。しんしん冷える真冬の夜。かんこと凍みついた固雪に、満月の光りが暗い影を描きだしていた。樹木は雪布団の下でぐっすり眠る。森じゅうの住人たちが、平和な夜の眠りを眠っていた。オオミミズクだけが、笛のような声を四方にホッホッと響きわたらせ、小さな岸辺の森に住む重要な夜巡りをしていると教える。驚くほどの危険はなにも起こりようがなかった。それで、たった今も真珠フクロウ {学名Aegolius funereus こげ茶色の入ったとても小さな白フクロウ}のラムが、森の真ん中に高く聳えるトウヒの天辺に止まり、静かな雪原を睥睨していた。なにもかも平和そうだ。すてきな狐の月夜だった。それなのに狐のトゥオマスは巣穴にこもっていた。熊のサンテリも同じだ。長い冬の間じゅう、隠れ家の巣穴で眠るのだった。兎のヤッセだけは、ずっと前からやっている夜のランニングにでかけた。寒暖計はー40℃だもの、暖かい家の中にいるのがなにより最高だ。
 しかし、突然、ラムは、かんこと凍みついた雪原に、おかしな動きがあるのに気づいた。「やれやれ、貂 のサメリが、また自分のお気に入りの場所にやって来たに違いない」ラムは、勝手にそう思いこんで、その不思議な事態をよく確かめようともしないで、むこうを向いてしまった。その間も、不思議なことが起きていたのに!かんこと凍みついた雪原に、忙しげに動いていたのは、貂などではなく、あごひげのある小さなトンットゥの老人だった。老人は、ヒゲゴケ {老樹の幹に生える緑の細長い髭のような苔。海の藻ずくのように幹のそこかしこに垂れ下がり、風に揺れるのは、不思議な光景である} で織り上げた布の服を着て、足にはラップ人の靴 {つま先の反り上がった履物。トナカイの毛皮で作る} を履いていた。しばらくの間、小枝でラップ風の寝床を拵えていたが、仕上がった寝床のわきに、乾いた木切れで焚き火を熾した。そうしてからトンットゥは寝床のモミの敷物にちょこんと坐り、しばらく休息した。ひとしきりナップサックをかき回し、自分の食べ物を取り出す。
 その頃ラムは、焚き火が燃えているのに気がついた。「驚いた」と声を上げ、ヒュウと旋回して目を凝らす。一瞬もためらわずに、真珠フクロウは焚き火をめがけ、まっすぐ寝床の前に躍り出る。トンットゥは吃驚仰天。
 「ヤレ・・・この辺りの森は、住むものもないと思っていたでよォ。こんなに深閑と静かだものよぉ。」トンットゥはそう言って、緑の眼で、いつものように鳥を仔細に眺めた。「ここはだれも住まない森ではない。ここには我らの一族がいる。ほかには誰もいない。」真珠フクロウは、いつもと違って少し息を切らしながら答え、そしてことばを続けた。
 「我々の森では、禁じられていることがある。家の中で暖炉やローソク立てならいざ知らず、ここで火を焚いてはいけない。だから監視している。我々の住む森を、我々はあらゆる方法で守らなければならない。もし森が壊滅したら、ちょうど今この焚き火が火元になって、そんなになったら、我々はもうどこにも住む家がなくなる」  「おっしゃるとおりだ。この火をすぐに始末しよう。もう心配はいらないよ。私は、夜、空の下で、膝を抱えて眠るつもりだったので、焚き火を燃やしたかったんだ」と小さなトンットゥは落ち着いて答え、それから焼けてパリパリになったイラ草パンをパリンと割り、小さな煤けたポットから、花柄の木製コップに、湯気の上がったキノコ {地上に生える灰色の苔。トナカイの冬の食糧}の茶を注ぎ、それをさも熱そうに音を立てて飲みはじめた。
 「君もなにか食べなさい!キノコ {マッシュルーム} のチーズでも召し上がれ」トンットゥは微笑んで、大きく割ったチーズの一片を、頑な顔つきをした真珠フクロウにすすめた。ラムは、よろこんで美味しそうにチーズを食べ、妙にうきうきして、トンットゥのそばに腰かけた。すぐ、昔からの友だちのようになった。ハイキングでみんな輪になって焚き火で暖まるように暖まり、おしゃべりをしておやつを食べ、その夜は楽しく過ぎていった。
 夜が白々明けてくるのを感じるまで、真珠フクロウは、トンットゥつまりニッラ・ウッコが話すたくさんの物語を聞くことができた。自分のことやここにこうしている不思議な理由を、ニッラはラムに話した。その物語というのは、その後、森に住むものたち皆が、聞くことになるのだが、こんな話だ。
 ニッラ・ウッコは、古い丸太小屋に住むトンットゥで、人寂びたラップの奥深く、愛川の中間に住んでいた。ペフコネンクルの原野に、丸太小屋を自分で造って暮らしていた。そこでニッレは、夏は小川を堰き止め、砂金を洗い出し、一人きりの平和に満足して暮らしていた。そのあい間に、キノコ山頂と白い丘 と離れ山の風景を散策した。ところが、とつぜん、すべてが変わってしまった。ラップの自然の清らかさと原野の枯山水の美しさと、原野の安全な平和を、旅行者に見つけられてしまった。そこは街の喧噪や、めまぐるしい多忙に捉われていなかったのに。おそろしくたくさんの旅行者が、外国からさえ、延々とラップにやって来た。しかも、樵が、もの凄い音を立てる機械を使って樹木を伐採し、広大な土地を丸裸にしてしまったので、森は次々に消えてしまった。鎖のように川でつながった湖に、世界中のあらゆるゴミが集まり、木の実の丘にはショベルカーや電動ソリが呻りを上げた。トンットゥはそれらすべてにうんざりした。それで平和を愛するニッラ・ウッコは、悲しい心で、愛する丸太小屋の家を離れ、人間が汚したり壊していない、まだ平和な自然の残る森に、新しい住処を探しに出かけた。こうしてニッレはもう何週間も移住の旅をしてきた。スイカズラの魔の危険まで行っても探索は終わりそうもなかった。ニッラが、そのトナカイの小道を歩いていると、古い静脈島生まれのキトカン・ヴィイサ{摩擦の賢人}という名のマアヒネン{緑色した地の精}の老人に出会った。ニッラを客人として迎え入れ、ヤンカ丘陵に留まって一緒に暮らそうと誘ってくれた。まだかなり平和に暮らせるとはいえ、そこもすでに人間による破壊の爪痕が見られた。ヒィデンヴァアラ付近もすでに木が大部分なぎ倒され、山頂に森がわずかに残っている有様だった。今度はそこの番なのか?トンットゥは、そこに留まって見ているのは忍びないので、マアヒネンの老人に暇乞いを告げ、先へ先へと旅をつづけた。ニッラは、イイ山の温泉水の瓶詰めを、手みやげに携えていた。一口飲むと人間のあらゆる病気がすぐ治る秘薬だった。その上どんな長旅も、天までだって、元気につづけられる力を与えてくれた。そうやってニッラ・ウッコは、ようやく小さな湖岸の森に到着した。湖の反対側にある見事な黒山が、そこから遠くに青くうっすら見えた。まるでラップランドの故郷にある丸山のようだった。土肥がどちらの方角か、ニッラはすぐにはよく分からなかった。けれど、森は、少なくとも今は、平和で心地よく家庭的な感じがした。なにより、あの丸山に似た黒山が見える。それでニッラ・ウッコは、そこに留まり、住む決心をした。フクロウだって、それにはまったく反対しない。本物の暮らしを楽しみ、大切に思って守る、そんな住民を森に迎えるのは、かえってステキだ。
 こうしてラップのトンットゥは、いまだ清明で平和な森の翳、ラム・フクロウが営巣する木の近く、苔むした天然の山小屋を新しい住処にした。再びそこで、かつてラップに住んでいた頃とおなじ、丸太小屋の平和を原野で経験することができた。雄弁な静寂と自分自身の試みに耳を傾け、冬の夜は暖かい小屋で、ローソク・ランプの薄明かりのもとで過ぎ去し日を想い、山の小川で見つけた砂金を眺めることができた。
 ラップのクウッケリ{体長30センチくらいの綺麗な鳥}とエティアイネン{異変を知らせるユウレイ。ラップランドの俗信}の啼声だけは、ニッラ・ウッコはとても懐かしがった。その他の点では、彼は生活に満足していた。


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